【塩谷物語】 -塩谷村-

「塩谷物語」の予告編でも少し触れましたが、塩谷の歴史について、改めてご紹介します。

いわゆる小樽の観光地からちょっと離れた地域にある塩谷は、1958(昭和33)年までは、「塩谷村」という一つの村でした。

塩谷では縄文土器などが多数出土されていることから、早くから人々が暮らしていたものと思われます。
その後アイヌの人たちが暮らし始めました。江戸時代になり、本州方面から移住者、いわゆる和人が渡ってきます。塩谷周辺には、松前藩(現函館市周辺)の知行地(ヲショロ場所)が開かれていた、と言われていたそうです。
明治時代に入り北海道開拓が始まり、塩谷周辺は「忍路(おしょろ)郡」として開拓使におさめられ、地域名は「忍路郡塩谷村」になります。(※塩谷の地名の由来はこちら
1906(明治39)年、忍路郡の忍路村、桃内(ももない)村、蘭島(らんしま)村が合併して塩谷村になりました。

大正・昭和の初期を経て、1958(昭和33)年、小樽市とその西側にある塩谷村が編入され、塩谷は小樽市の一部となり、「塩谷村」は消滅します。明治・大正・昭和と、50年以上に渡って塩谷村は独自に自治を行っていたということになる訳です。

現在、年配の人の中には、「市内中心部に買い物へ行く」という意味で、「小樽へ買い物に行く」という人がとても多いのですが、それは、塩谷村だったことの名残です。そんな年配の方たちの会話を聞いて育った子どもたちも、なんとなく、「小樽へ行く」と使ってしまうっていうのが、ちょっと面白いです。

塩谷村だった名残は他にもあります。現在塩谷は1丁目から5丁目までの住所表記になっていますが、その昔は「新吉原」「ホッケマ(※マは※マは漢字。さんずいに間)」などの字名が付いていました。地元の方の中には今でも当時の字名を使って呼んでいる方もいます。

その昔、塩谷がどんなところだったのか、塩谷では人々がどんな暮らしをしていたのか。。。字名をたどっていくと、わかるかもしれませんね。

参考文献:小樽市史